殺さなきゃいけない。
殺さなきゃいけない。
殺さなきゃいけない。
殺さなきゃいけない。
ぶっ殺してやる!
僕は人を殺してやる!と思っている。
それは悪いことじゃない、とも思っている。
「今日も早速、ブログを書こうと思ったのだけれど、なぜか知らないけれど、ネットに繋がらない」
仕方がないから、僕は今、この文章をパソコンのメモ帳に書いている。
あとで、コピペするためだ」
僕は、子供が好きだ。
子どの役に立ちたい。
昨日本田由紀さんの「教育は何を評価してきたか」を読み終わった。
そこには、学習指導要領とか、国が策定している教育の方針についての文章が多数引いてあった。
僕は、人生て初めてそれら教育系の(準)公的文書を呼んだのだけれども、いくつも不可解な点があった。
例えば、彼らは「子供が楽しくなったり嬉しくなったりすること」に完全に関心がない。
「学習を通して子供を楽しくさせたり嬉しくさせたりする」ではなくて、
「学習とか関係なしに、子供と接する以上は、子供を楽しくさせたり嬉しくさせたりしたいなあ」
という思いが、そこに書かれていなかった。
あと、教育に携わる人が、うひょひょひょ、と笑い出すくらい楽しく生きること、というのも目標に掲げられていなかった。
ただそこには、「こういう人材が必要だから、こういう人材を作るんじゃボケえ」という内容しか盛り込まれていないようだった。
憲法では、文化的な生活を謳っているのに、行政は人々の文化的生活を目的に掲げない仕組みを推し進めている。
僕は、本田さんの言語分析はとても一読では学びきれない豊かな言説だと思ったけれど、
少しだけ物足りなかった。
なんで、教育に関わる人間の嬉しさや楽しさが教育にまつわる公的文書には、一切書かれていないの?
あほやん。
という指摘が読みたかった。読みたかったから、ここに僕が書いた。
今日は、高橋源一郎さんの「日本文学盛衰史 戦後文学篇」を読み終わった。
シーモア・パパートさんの「マインドストーム」奥村貴世子さん訳を少し読み進めた。第3章が特に面白いが、第8章もすごくよかった。
ここでは、子供達が楽しく学ぶことが大切なテーマとして主題として奏でられている。
僕は人を殺したい。
僕の殺したい人々は僕の記憶の中にいる。
過去という時間の上で彼らは僕と関わっている。
だから、彼らを殺してもいい。
昨日久しぶりに将棋をした。久しぶりだと将棋は楽しい。
けど、毎日将棋をするのはつまらない。好奇心がくすぐられない。
月に一度くらい思い出したようにやるのがいいね、と思った。
僕の学び方は、付属CDを聴きながら、自分もタイ語の文章をただ音読するというもの。
練習問題には取り組んでいない。問題ってストレスを感じるからきらい。嫌いなことをすると人を殺したくなる。よし、殺そう。
日本語の解説はほぼ読んでいない。
けど、繰り返し(現在3回目)CDを聞いて、該当箇所のページを眺めながらシャドーイングしていると、そこそこつかめてくる。
語学の勉強をすると、新しい刺激の連続だから眠たくなるよ。不眠症の人は試してみて。
僕の暮らす街には、いろいろな国から働きに来ている人たちがいて、彼らの言葉をぼんやりとでいいから、聞き取りたい、と思っている。
それにしても、「ニューエクスプレス」シリーズはすごい、「ロマ語」とか「アイヌ語」とかもあるのだ。小笠原語も!てか、小笠原語って何?
チベット語を学んだら、少しは何か分かるかもしれない。民族浄化ってどういうことか、とか。
僕は人を殺したくて殺したくてたまらなくて、よく地元の警察に「職務質問を強制するてめえらばばかやろだ、ぶっころしたい!」という匿名の手紙を出している。
職務質問を強制したばっかりに、死んだ人だっているのだ。
僕はいつか、たくさんの人をぶっ殺してやる。
友達になろう。
僕は、参加者が自由にふへへへへとあひゃひゃひゃひゃと、クスリもやっていないのに、あひゃひゃひゃできる、そんな授業をしたい。
授業というかなんというか。
大学は偽物だ。
いつかぶっ殺してやる!
学問とは無関係なことでも、心に浮かんだことなら何でも話していい、何が心に浮かぶのかを研究したいから、そんなゼミナールを僕はいつか開きたい。
いつかぶっ殺してやるからな!
今日はこれで終わり。それにしても、相変わらず、ネットが繋がらないね。
追記、
今日ようやく新しい小説への光明が見えた。
妖怪が子育てをしたり、そんな話だ。
明日には見えなくなる光明かもしれない。
それは、よくわからない。
はじめまして。
久しぶりに、ブログを書きたくなりました。
以前は、毎日長々と自分の考えを書いていたのですが、今回は、書きたいな、と思った時に、短く、せいぜい500字くらいで、ぽつりぽつり、と書きたいと思います。
「人がだいきらい」
「みんな死ねばいい」
ということを、僕は今書きたいので書きます。
つまり、そういうブログにしようと思う。
「わからないことはわからないことでいいじゃないか」
以前、プロテスタント系の協会に遊びに行ったことがあります。
で、いいところだったのだけれども、ぼくがカトリックにも興味があるというと、カトリックの悪口が始まりました。
「分かり合えない相手のことは、分かり合えない相手、で処理すればいいじゃないか」
「わからないことは、わからないままでいいじゃないか」
「自分の理解の及ばない相手を、悪く捉えなくてもいいじゃないか」
僕はそう思うよ。
この頃、平田オリザさんの「わかりあえないことから」講談社新書(だったよね?)をうろ覚えで思い出そうとしていますがタイトルと帯の惹句以外思い出せません。
僕は近所のおばさんがきらいです。
優しくなさそうな顔しているからきらいです。
僕は今、新しいことについて考えています。
(でも、僕のおばさんがきらい、という気持ちは、あっさり、次の次の行では、別の話題に移ってしまうくらい、あっさりしています。とてもきらいです。)
今日は、本田由紀さんの「教育は何を評価してきたか」岩波新書を読みました。
僕は友達を求めて、友達について考えているようです。
「殺したいけど殺したくない」そういう二つの気分を同時に、隠し持っていたっていいだろう、と思っています。
こうしてぽつぽつ文章を書いていると、うれしくなります。
でも、今日はこのくらいにします。
「また、今度書きます」
「僕は、みんなのことがきらいな気がしますが、好きな気もします」
たまに、ゴキブリとかネズミとかが、いきなり人間のいる前に現れて、阿鼻叫喚を呈することがあるじゃないですか。
ゴキブリもネズミも人間のことを怖がっているし、人間はゴキブリとかネズミがきらいです。
でも、ゴキブリとかネズミは、人間のこと怖がっている割に、うっかり人前に姿を現します。
好奇心が旺盛なのかもしれない。
僕も人間のことがきらいだけれども、人間の声を聞くと人間の文字を見ると、耳やめめがぴくぴくします。
「じゃあね」
「僕は人間があまり好きじゃない」
「人間はいつも僕を怒るからだ」
愛されていないなら好きにならなくていいよね。
愛されたら、好きになる、という条件反射で人と接している。
仮言命題が少し好きです。
「愛されたら他者のことを好きになる、けど、愛されていないから、他者のことを好きにならない」という状態の人がいて、その人は果たして、他者のことを好きなのだろうか、きらいなのだろうか。
僕は誰に対しても「愛されたら好きになる」ゴキブリから愛の言葉をささやかれたら、ゴキブリのことも好きになる。
これはこれで、僕なりのやさしさで、普遍愛ってことにならないかな。